ブログという文学実験室

「お互いの関係を知る」と「お互いの関係性を知る」、このどちらが日本語として正しいと思いますか。

どちらも一目見て意味の通じる言葉に思われます。これに対し、ある分筆家のお方が「関係性」という日本語はふさわしくないと言い放ちました。どうやら「⚪︎⚪︎性」というように、「性」「的」など便利な文字をあらゆる名詞に安易に付けてしまう態度に憤慨したようです。

私の見方としては、当然その言い分を理解できます。よく言われるように、巷間において不適切な言葉の乱用は悪化しています。それは単に言葉遣いについてのみではなく、対象は文法、慣用表現、敬語など多岐にわたります。

ただ他方で、言葉、言語とは変化していくものです。言い換えると、言葉は生き物です。その点を考慮する必要があります。言葉には音韻があり、文章にはリズムがあります。無意識のうちに、字面を追うなかで視覚から聴覚に神経系が移行しているのです(生物学の理論として合ってる?)。つまりは、言語が人びとにとって読み易いように変型していくことは、ある意味では自然な変化だと言えるのです。

ところが、文学の世界ではしばしば美しさを求められます。文体美というものです。これらはときに衝突します。聴覚対視覚、または効率対価値といった様相を呈します。どちらが正しいのか、使いやすいのか。これといった明確な基準などなく、淘汰と誕生の歴史が繰り返されてきたのです。

以上を踏まえて、私には何をすることができるのでしょうか。それは本ブログやツイッターなどを利用して、分筆を重ねていくことしかないように思います。本業ではないこうした試験の場を借りて、分筆に新しい価値を見い出すことが私にとって有用だと考えるに至りました。ですから、今後も事実と虚実を混在させた文章を記していきます。