一弾指

僅か数秒の間に生じた事象を描写するのに、文章より優れるものはないだろう。用意された舞台と局面、揺れ動く心情、激しい葛藤、発せられる一つ一つの言動。すべてが連続するコマを形成するための要素なのである。


青年はただひとり、マウンドに立っていた。
というよりも立たされていた、とする方が正しいのかもしれない。己の古びた誇りを示すには他にどうすることもできなかったからである。この試合で結果を出すことしか、彼に残された道は無いと悟っていた。
プロの世界は厳しい。そう聞かされてはいたが、身をもって知ることになるとは思いもよらなかった。彼は鳴り物入りでこの世界に足を踏み入れたのだが、右肩の故障も影響して望まれる成績を残せていない。

四回表、外国人打者と対峙していた。身長190cm、体重100kgを超える体格で、いかにも長距離砲として期待を寄せられる強打者である。対するマウンド上の彼は、身長170cmほどで決して恵まれた体型とはいえない。投手と打者の間に十数メートルの距離があるとはいえ、打者からの威圧感が投手を圧倒した。
ここまで彼は好投していた。相手に出塁を許すにせよ、初回に本塁打を浴びたのみの最小失点に抑え味方の援護を待っていた。その一撃を見舞った相手がまさにいま相対する打者だ。同じ相手に単打を許すわけにはいかない。
「今度は打ち取ってみせる」
その思いで強気に放った137kmのストレートの球は、低めに外れた。頭では勝負したつもりなのだが、身体が勝負を拒否するかのように避けてしまっていた。身体が過去を記憶しているとはこの事だろうか。
次に投じた変化の小さいスライダーも、外角にはずれた。相手に内野ゴロを打たせる狙いであったが、打者のバットはピクリとも動かなかった。投手側の心の動揺が音の波を伝って、相手に届いているのかとさえ思えた。
三球目、相棒である捕手の指示になかなか首が縦に動かない。
野球は投手から捕手へのキャッチボールである。その投球を遮る物質をかわして捕球させることが根底にある。
涼しげな顔面の額に汗が滲んできた。汗を拭う布のようなものが欲しい思いに駆られた。額から噴出した汗水がこめかみをつたう。ようやくサインが決まり、投じられた変化球は捕手の構えに反し、高めに抜けた。

一度もストライクを捉えられない。次に投じた四球目も敬遠気味のストレートとなり、四球を与えた。彼の内部から何かが崩れ出す音が聞こえた気がした。
続く打者に甘く真ん中に入った初球をとらえられて、二人連続で二塁打を許した。二人の走者が生還した。ここで監督に降板を命じられた。彼は歓声の届かないところに姿を消した。流れた汗は嘘のように乾いていた。

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